BsBsこうしょう

これは考えたことではなく思ったことです。

6/26~6/30聞いた音楽

今週は色々あったため結局1個しか聞けず。

Flank Brigde: Complete Music for Piano

フランク・ブリッジはイギリスの作曲家・弦楽奏者・指揮者(故人)……って書いてある。さすがに全然分からん。

何か知らんけど流れてきてお気に入りに入ったフランク・ブリッジを聞いてみることに。ありがたいことにピアノの全曲集がある。

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↑入ってたやつ。印象派チックで好みなタイプの曲ではある。

改めてピアノの全集を聞いてみると、無調的というか、現代音楽の様相が非常に強い。興味深いとは思いつつも、あまり深入りしたくない感じの音楽ではある。

ただ、その中にも上で挙げたような比較的調性がしっかりしている方の曲もあり、お気に入りに入ったのはそういった曲がメインだった。

個人的には同じイギリスの作曲家のソラブジと同世代なのかな~みたいなことを思っていたが、フランク・ブリッジの方が先だったようだ。もしかしたら影響を受けているのかもしれない。知らんけど。

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分かりやすい曲がお気に入りに入っているが、その中でもこの『Fairy Tale Suite』はとりわけ分かりやすい。4曲の組曲を1トラックに録音しているので少々時間が長いが、Fairy Taleの名の通り、映画音楽のようにお伽話のシーンが目に浮かぶような曲調で、聞く者の想像力を掻き立てる。まあこれは前衛音楽ではありませんが…

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上のFairy Tale Suiteと合わせて、下に行くほど難解になるようにして並べてみた(記録には残ってないが、もっと難解な曲もありました)。こうやって同じ人が作った異なるスタイルの曲を聞き比べてみると、「自分はどのくらいの複雑さ(不協和音)まで聞くに耐えられるか?」「自分はどのあたりの複雑さを最も好むか?」ということを測れたりして面白い。こういったことができるのも、フランク・ブリッジという作曲家の作る曲が、非常にバラエティ豊かであるからこそ為せるワザだ。あとは同じピアノ独奏曲であるということも大きい。

フランク・ブリッジは独自の和声を追求した作曲家としてWikipediaには紹介されているので、難解な曲を研究してみる価値はありそうである。日本で研究するには楽譜の入手難易度が非常に高いようだが。

個人的には現代音楽まで行くと大喜利の世界だと思っているので、エッセンスを借用するにとどめておいて、軸足は後期ロマン派や印象派に置くのが最も美しく現代的な曲のあり方だと思っている。世に広く膾炙するポップスはポスト・ロマン音楽であるならば、最先端の音楽はその中で最先端だった印象派をベースとしたポップス、ポスト・印象派音楽であるべきだろうという考え。

おわりに(雑記)

ちょっと短くなったので、お小言を*1

世の中には、「良い文章とは読む者の心を打つ名文のことである!」と言わんばかりの勢いで書いただけの文章を出し、さらにそのことについて何の悪びれもなく釈明する人間を何人か見た。しかしながら、それらは全て間違いである。

良い文章は解釈が一意であり、なおかつ適度に読みやすいもののことを指す。心を打つ文章を書きたいのであれば、ライティングなんかやめて詩人でもやってればよろしい。

解釈が一意であることと、読みやすいことはほとんど同様にして語ることができる。読みやすい文章は、結果的に解釈が分岐することを防いでくれる。

ダメな例を考えると分かりやすいだろう(つまり、逆を考えてほしい)。読みやすい文とは、「一文が短く、適切に読点その他役物が配置されている文」のことだ。そしてそういった文のまとまりが、マークアップ言語が解釈できる形にアウトライン化されているもののこと(そして可能ならそのような文章の中で短いもの)を、読みやすい文章という。

読みやすい文に付随する有名テクニックのひとつに、「順接の『が』は使うな」というものがある。実は、日本語には順接の「が」を使うことで無限に一文を長くできるというハックがあるのだが、これを使うのはやめましょう、というテクニックだ。理由は上に書いた通り。

ここまで読んだ人は、「いやいや、ライトノベルとかで崩れた日本語でも読みやすいのあるじゃん」という感想を抱くかもしれない。確かにそれはその通りで、ネイティブなら文章構造がものすごく破綻していても意味を取ることはできるし、何ならそちらの方が読みやすいというケースは存在する。しかし、それも良い文章があってのことだ。

言語の文章構造について我々が知っておかなければならないことがある。すなわち、我々が普段使っている話し言葉は、思っているよりはるかに文法が破綻しているということだ。話し言葉なら、確かに崩れていても問題ないだろう。しかし、書き言葉はひとたび文法が破綻したら問題になってしまうことは、知っておいてほしい。

また注意深く観察すると、小説家などが崩れた日本語を書くときは、崩れすぎないように配慮して書いている、あえて崩れ度合いをコントロールしたうえで書いていることが分かるはずだ。我々の話し言葉の書き起こしと、小説の言い回しを比較するとそのことがはっきり分かるだろう。だが、お前の崩し方はそうじゃない。型を破るにはまず型を知らなければならない。

詳しく知りたい人は、ジャーナリストの安田峰俊が著した連載記事『片手間で教える文章講座1 「ユニバーサル日本語」の書き方』*2もしくはその書籍版『みんなのユニバーサル文章術 今すぐ役に立つ「最強」の日本語ライティングの世界』を読むと良い。

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より詳しく知りたい人は『理系研究者のためのアカデミックライティング』などのアカデミックライティングに関する書籍を読むといいだろう。こういった書籍は、普段どれだけ言語という概念に対して、ナメてかかっているかを教えてくれる。言語をナメているうちは、良い文章を書くことはできない。

こういったライティングの技術は、本来高等教育機関で適切なフィードバックを受けて磨かれるものだが、ほとんどの大学ではレポートに対するフィードバックがないため、独学によって習得するしかない。ライティングに対するセンスは意識して身につけようとしなければ身につかないため、満足なフィードバックを受けなかった生徒は、自身の問題点を認識することがないまま卒業してしまうかもしれない。そのようなことは嘆かわしいことだ。

*1:「おめーが言えた話じゃねぇだろ」などの指摘は甘んじて受け入れる。

*2:いつの間にか2以降有料になってた……